早慶レガッタ So-Kei Regatta

EncycROWpedia OZAWA ROWING
1905年(明治38年)に隅田川向島コースで始められた早稲田大学漕艇部と慶応大学端艇部の伝統ある対抗戦.隅田川の春の風物詩ともなっており一般にも有名.最初は1250mだったが,戦争による3年間の中断の後は6000mレースとして復活,現在は次第に短くなる傾向にあるようだ.
1957年(昭和32年)の,いわゆる「あらしのボートレース」は,小学校の教科書(学校図書,小学校国語6年上,1961-1970)にも載り,沈没レースとして有名である.(以下,要約)
その年の前年の1956年,メルポルン五輪では慶応クルーが日本代表であり,その選手が5人も残っていたので慶応クルー優位との前評判だった.レースは荒天が予想されたが,それに対して早稲田と慶応は各々対照的な方針を持った.早稲田は,「舟とは目的地に着くことを最大の目的にするもの,どんなことがあっても艇を沈めてはいけない」とし,アルミの食器を3個積んで乗った.これに対し慶応は,「エイトとは8人で漕ぐもの,どんなことがあってもオールを離すような失礼なことはするな.8人で漕げるところまで漕げ,それでこそ対抗エイトだ」と考えた.レースはスタートとともに強い雨となる中,慶応のリードで始まり徐々に差が開いた.途中から早稲田は時々シックスワークに変え,整調ペアと舵手で水をかい出しながら漕いだ.慶応は中盤を過ぎて浸水のため徐々に艇速が鈍り,3800mでついにオールを離さず沈.早稲田は艇を沈めることなくゴールまで艇を運び,勝利を得た.
この話,もちろん小学校の教科書で,リバーレースの技術論の検討のためではなく(笑.当然か…),単元としては「自分の意見を述べ合う(民主的討論)」の教材だったとのこと.私も,この話を読んだ記憶があり,それがボートをすることのきっかけの一つになったと思う.
参考:「早慶レガッタの午後」(佐山和夫著,1994年,ベースボールマガジン社刊)(2007.2.22)
EOF