パラR/視覚障害/1900年代の2つのエピソード

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項番号、1の4。 タイトルは「千九百年代の2つのエピソード」です. 二千十四年一月十三日版. 約4分で,ファイルサイズは約七メガバイトです。 視覚障害のロウイングについての、二つのエピソードを、紹介します。

その1. 盲目の整調。
このエピソードは,「改訂新版,ボート百年」(宮田勝善著、時事通信社、千九百七十六年)に載っています。 昭和十年の頃、アメリカ漕艇界の強豪である「コーネル大学」は、全米エイト学生選手権に盲目のドン・モーガンを,整調に起用し、各校は驚きました。 コーネル大は,優勝こそしませんでしたが、モーガン整調の下で堂々の戦績を納めました。 モーガンは高校時代、遊んでいた花火が爆発して、視力を失いました. しかし、その肉体的ハンディキャップにめげず、よく勉強もし、身心のよりどころをボートに求めてじつに練習をよくやりました。 コーネル大のコーチは、かれの熱心さを認めて、整調の席を与えたのです。 これは、ウォーターマンシップさえあれば、ボートは盲目でも漕ぐこともできるし、またいくらでも強くなれる,という良い一例です。

その2. 盲学校の生徒にボートを紹介したコーチ。
このエピソードは、ウェブサイトの「ロウツーケイ」の二千五年三月三十一日の記事からの要約です。 千九百五十年代初頭、ニューヨーク・モウ教育大学(現在のニューヨーク特別教育大学)の,数学と語学の教授だったセス・ウィークス・ホアード氏は、それまで漕いだこともコーチの経験もありませんでした. しかし、大学を説得し、ハーレム川にあるバイキングロウイングクラブで、視覚障害の生徒の訓練として、ロウイングプログラムを始めました。 彼は、コーチとしては初心者でしたが、すぐに、ロウイングが,健常者と同じレベルで、何ら制約なく参加することができるスポーツになる、と確信しました。 地元高校からコックスを雇い、多くの盲目の生徒にロウィングを体験させました。 彼は、さまざまな革新的な指導方法も編み出しました。 オールのハンドルに、フェザーの位置がわかるように目印の鋲を打ったり、桟橋の端にファイバーマットをとりつけて警戒できるようにしたり。 また、指をかけてつかみフェザーできるようにした、スカル用の「クロウ・クラッチ・グリップ」もつくったり、ロウイングテクニックの正しいポイントを思い出せるように「漕艇の歌」も作りました。 プログラムはすぐに効果をあらわし始め、やがて大学は、バイキングロウイングクラブの艇庫とボートを買収するまでになりました。 クルーはレガッタにも出場し、非公式のレースではコロンビア大学の新人クルーを負かすことさえありました。 生徒の多くが、ホアード氏が退職した後、何年にも渡り,この良き師と親交を続けました。 ホアード氏は、千九百九十年代初頭まで現役で漕ぎ、またコーチも続け、生涯をボートの普及にささげ、二千五年に九十八歳で亡くなりました。
以上で、「千九百年代の2つのエピソード」の説明を終わります。 このように、舵手つき艇であれば、ソウシュというポジションは、視覚の障害を乗り越えられる可能性があります。 みなさんもがんばってみませんか?