唐津中学遭難事故 1905年(明治38年)

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1 クルー
1905(明治38)年4月30日,旧制唐津中学の生徒9名は端艇・舞鶴第2号での遠漕に出発した. 背景として,恒例のボートレースが日露戦争で中止,血気にはやり遠漕を計画したようだ.旧制中学の1~5年生は,現在の中1~高2にあたる.
長崎県北高来郡諫早村村 士族 3年生 早田需
佐賀郡北川副村大字木原175番地 士族 4年生 江島義治
西松浦郡山形堤の川5番地 平民 5年生 小松忠次郎
杵島郡北方村志久99番地 平民 5年生 光岡鼎造
東松浦郡唐津町唐津1014番地 士族 5年生 坂本山吉
東松浦郡巌木村中島52番地 5年生 白水治市
長崎県北松浦郡福島村原 士族 2年生 村田勝
東松浦郡相知村長部田 平民 3年生 江頭九郎
東松浦郡玉島村淵上69番地 士族 西村伊之助
坂本山吉は自宅通学,他は民家に下宿していた. 明神小路の松澤宅の下宿生は出発時,松澤氏から危険と注意を受けたが,聴かずに行ってしまった. 中学校下の飯野某宅の下宿の2生徒も,家人が止めたが聴かず,「死んだら衣類は家に送ってください」と言い残し出発した. (事故後,「まさか本当にそんなことになるとは」と,家人も悲嘆に暮れることとなった.)

2 遠漕の経緯と事故発生
 西村伊之助が生還し,状況が把握できる事故でもある. 4月30日午前5時,学校の裏手の西の浜から出発,当初,目的地は「筑前鹿家(しかか)」,東北東約7.5kmだった. しかし,海上が平穏だったので,急に目的地を変え,「芥屋の大門」(けやのおおと,玄海灘沿岸の名勝,日本三大玄武洞)まで拡張した. 直線距離で約20km,当初の約3倍である.
9時15分頃,福の浦(出発地から約18km)に立ち寄り,村人に,大門への距離と天候を尋ねた. 村人は距離を教え(回り込み約5km),また天候が悪いので急ぎ帰るべきと注意した. 大門に到着し,昼寝をしたようだ. その後,12時頃に帰途につく.
大門岬(地図では不詳.地図上では「仏崎」のことか)を回ったところで,それまで平穏だった海上が一変,強い南風でひどく荒れていた. 背振山地・吉井嶽(≒浮岳?)から吹き下ろす強風である. 想定外だったが,「何のこれしき」と,一同勇気を鼓舞,高島を目標に一直線に漕ぎ出した.
しかし風波はさらに悪化,危険な状況となり,深江に向けて針路を変更,翻弄されながらもなんとか船越湾まで漕ぎ入れた. しかし13時半頃,「鷺の首」,「鷺背」の南約1海里(約1.8km)のあたりで,艇は大きく揺れ,一気に転覆した. 一同は,転覆した船底にすがりつき軍歌を歌って励ましあったが,やがて疲弊し,一人ずつ艇を離れ波間に消えていった. 最年長者の小松忠次郎は,怒涛の中,次々に消えていく仲間を見届けながら,最後まで激浪と闘い,遂に力つき「万歳」を叫びつつ姿を消したという.
西村伊之助もまた艇から離されて漂流していた. 芥屋村の漁民が,陸上から異状に気づき,漁船3隻で,野辺の崎から約500mの水上を漂流していた西村伊之助を,午後4時頃救助し,魚市場に寝かされ,さらに岐志村の山本儀助区長宅で手当を受け,約3時間後に,意識回復した(救助から約5時間後,午後9時頃か).
それで,端艇が遭難し,他にも遭難者がいることがわかり,村人が二里八丁(8.7km)の道を走り,前原電信局から学校あてに至急電が発信された. 1日の午前1時のことである.

3 捜索
学校では,暴風の中,日没を過ぎても舞鶴第2号が帰投せず,職員から生徒にまで,近辺を探しながら深夜におよんでいたところ,至急電が届いた. すぐに職員会議が開かれ,2教諭が岐志村に急行した. 翌日,学校は臨時休校となった. 澤山熊治郎の小型蒸気船桜丸が準備され,9:20,5職員が搭乗し,岐志沖から姫島近海一帯の探索にむけ,出港した. 沿岸の役場と駐在所に電信を発し,協力を依頼した. 高島から和船3隻を雇い,探索に加えた. 教諭と生徒で複数の捜索隊が編成され,捜索に出発した. 陸路の職員は10時半頃,岐志村に到着. 警察官,役場職員,村民らと協力して近海の捜索を始めた. 桜丸は,11時前に岐志村に到着. 先着の2教諭の指揮で,午後から30隻の船を雇い捜索した.
岐志村区長,山本宅で休養していた西村伊之助は,股間の軽傷のほかは異状なく,精神もしっかりしていた. 捜索隊が連れ15時半に帰校した.
18時以降,捜索隊が順次,帰校した. 同じ頃,遭難生徒の父兄,保証人,親族そして有志が,桜丸で遭難地に赴いた. 現地には,捜索継続中の者が数名いた. 遭難艇を,桜丸が曳航して帰航. 付属品の流失があったが,船体には破損はなかった. 23時,和船で遭難地に赴いた3教諭が帰校. 2日23時,遭難地からの電報で,潜水器械やその他の方法で掃海するとの知らせもあった.
その後の捜索で,5月14日に小松忠次郎,5月16日に光岡鼎造の遺体が収容された. 5月20日までに全員を収容,5月27日に浜松寺で合同葬が営まれた. 職員一同が進退伺を提出したが,却下された. 事故後,濱崎,高島,鳥島,大島を結ぶ線以外の遠漕は厳禁となった.

4 事故分析,活用
・当時の技術,文化,社会情勢をよく考慮する必要がある.
・気象情報の精度も活用度もまだ低い時代. 天気図は存在した.西方に低気圧.
・9人(現代の中2~高2)の漕力,安全能力は,それほど高くなく遠漕の能力は十分ではなかったと思われる. 当初目標といわれる筑前鹿家あたりまでの沿岸漕力だろう.
・当初計画は本当に鹿家か? 「唐津湾の向こう端,糸島半島を回った先のまだ見ぬ大門までと計画した可能性?(当初予定が筑前鹿家であれば,朝5時の出発は不要に思える.)
・帰途,ラフコンに遭遇した時点で,自分たちの漕力と風波の状況を冷静に見比べ,安全をみて岐志浜に避難であれば大事には至らなかった. 多くの遠漕がそうだが(私も経験),「予定通り帰る」という指向の優先度が心理的にとても強く,それは判断を誤る要因になる. 一時避難=事故回避の機会を逃すことになる.

現代のロウイング(コースタル含む)につながるポイント:
・現在の気象情報は精度も高い. しかし利用しなければ明治のその頃と同じ. 目前のコンディションと,遠漕時間の先のリスクを混同せず,最大限に気象情報を取得し,計画に反映させよう.
・自分たちの艇・クルーの漕力,風波にどこまで耐えられるか?の限界を客観的に自覚しよう,読む能力を鍛えよう. 特に,コースタルなどで岸を大きく離れる場合は重要. 伴走艇,救助艇を確保すること.
・これは危ないね!という場面になった時,「帰巣」心理や,旅程の縛りにとらわれず,より最善の選択肢を探そう.
Karatsu Accident Map

[2021-3-23]
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